ようこそ当サイトへ
1,605年には既に徳川秀忠が2代目将軍となってはいましたが、実質的に幕府を動かしていたのは大御所の家康でした。家康は末代まで続く徳川の安泰と繁栄の為に、江戸幕府の基礎を固めていきます。
しかしついに1,616年、その家康も死去。家康亡きあとの江戸幕府は息子や孫が受け継いでいきます。
まあ個人的にはですが、江戸の文化は好きだけど、江戸時代が現代と比べていい時代だったとは思わないです。
士農工商や穢多(えた)非人などの身分制度や年貢の取り立て。幕府の独裁政治や理不尽な抑圧。そして反抗すれば最悪のところ打ち首。
庶民には辛い時代でしたね。
第2代将軍徳川秀忠
家康の長男である信康は武田氏と通じているとして家康に切腹を命じられ、正室「築山殿」と共に1,579年に自害。これは信長に命じられたからだとも、ただ単に信康が家康との仲が悪かったからだともいわれていて諸説ありです。
次男の秀康は、織田信雄に頼まれて秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」の和睦の時に、豊臣家の養子に出されました。その後の秀康は結城家に養子に出されて家督を継いでいき、武将としても優れ跡継ぎに推す声もありましたが、家康により三男の秀忠が跡を継ぐと決められました。
この秀忠は関ヶ原の戦いの時に家康とは別で美濃に向かっていましたが、その途中で真田昌幸の軍勢に手こずり本戦には間に合いませんでした。その事でしばらく家康とは口を利いてもらえなかったのだといいます。
ただ征夷大将軍に任命された後は、娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、大坂の陣でも部隊を率いて戦ったりとそれなりに存在感を示しています。
秀忠の統制
家康の死後は謹慎中だった弟の忠輝から領地を没収し、伊勢国朝熊に流罪にしています。
忠輝は自分の行列の前を旗本が横切ったとの事でその旗本を斬り殺し、家康から謹慎を命じられていました。秀忠はその追加処置として忠輝を厳しく罰したという事です。
しかしその忠輝は91歳まで生きたのでした。
う~む、過ごしやすかったのだろうか…
秀忠は重鎮の譜代大名である本田正純に対しても、宇都宮15万5,000石を没収し、代わりに出羽国由利(現在の秋田県)に5万5,000石を与える事としました。
これは正純が城を許可なく改築し、秀忠の暗殺を謀ったとして処罰したものです。ただそのような企みはなかったという事で正純はこれを拒否し、結果として出羽国由利に流されました。
これは秀忠と正純の関係悪化や、側近の土井利勝の本田正純を失脚させる為の策であったとの説もあります。
歴史的にみれば江戸幕府2代目将軍は影が薄いのかもしれませんが、このように家康の教えを守り厳しく統制しています。その秀忠も1,623年には息子の家光に将軍職を譲っています。秀忠もまた家康ほどではないですが、大御所となり家光に助言をしていき、その後1,632年に亡くなっています。
第3代将軍徳川家光
3代将軍となった家光は「自分は生まれながらの将軍」として強気な姿勢を見せています。家康も秀忠も武将から将軍になりましたが、家光は物心ついた時から江戸幕府がありました。そんな自分は特別な存在という訳です。
しかし秀忠や母親は弟の忠長を可愛がっていたので、もしかしたら家光は跡を継げなかったかもしれないんですよね。
ただ家光の乳母であるお福という女性が、家康に「長男が跡を継ぐべき」と提言。それが通って家光が将軍を継ぐ事が決められたのだとか。
ちなみに家光は次男ですが、長男が早世してるので長男の扱いです。この時のお福は「春日局」としても知られています。将軍になり損ねた弟の忠長は、のちに将軍となった家光の命令で自害させられています。
…う~む、どこぞの国と変わらんなぁ。
1,635年には家光により武家諸法度に参勤交代という制度が加えられています。
これは各地の大名の妻子は江戸に住み、大名は一年おきに領地と江戸を行き来しなければならないというもの。
かかる費用も大名持ちで財産を削り妻子は人質のようなものなので、これにより謀反を起こさせないようにする狙いがありました。
1,636年には家康が祀られている日光東照宮を、より豪華なものにする改築にも着手しています。
1,637年にはキリスト教の弾圧や厳しい年貢の取り立てに飢饉なども重なり、島原で大規模な一揆が起こりました。これを「島原の乱」と言います。
天草四郎の島原の乱
島原(長崎)藩は踏み絵という、聖母マリアが描かれた版画などを踏ませてキリスト教徒を炙り出すような事までしていました。
聖母マリアの絵を踏めない者はキリスト教徒として、火炙りの刑にもしています。
飢饉で作物が採れない中においても厳しい取り立てを行い、ついに住民たちの我慢が限界に達し反乱を起こしました。
一揆は次第に拡大していき、やがて神の御子と呼ばれ人気のあった天草四郎を指導者に担ぎ戦っていきます。幕府は一揆鎮圧の為に板倉重昌という武将を派遣しましたが、一揆軍は富岡城を落とすなど攻勢を強めていました。
勢いを止められないと判断した幕府は、老中松平信綱の指揮のもと総勢約12万の軍を編成し島原へ向け出陣します。それを知った一揆軍は原城に集結し戦いに備えました。
板倉重昌は松平信綱が到着する前に城を落とし手柄を上げようとしますが戦死。逆に松平信綱は無駄な被害を避けようと、原城を包囲し兵糧攻めにします。一揆軍の籠城から約3ヶ月が経過し、物資が尽きたと見た幕府軍は総攻撃を開始。原城を落としました。
約3万7,000の一揆軍は皆殺しにされ、大将の天草四郎も戦死したと見られています。
南蛮貿易の終わり
その後もキリスト教の弾圧は続き、家光はポルトガルとの貿易さえも禁止しました。
これはかつての支配者たちにもできなかった事です。
禁教令こそ秀吉も家康も出していますが、貿易の利益を考え徹底までには至りませんでした。
しかし家光は貿易を禁止してでもキリスト教の侵入を防いだ訳です。
貿易や交流が許されていたのはオランダと明(中国)と朝鮮で、それも長崎の出島と、松前、対馬、薩摩の4か所に限定され制限されています。
ただ、これで家光が家康なみに優れた将軍だったとはならないとは思います。家康によって幕府の基礎が固まり、国内の情勢が安定していたからこそ出来た事です。
家光は生まれながらの将軍候補で特別な存在かもしれませんが、それは逆に戦国時代を経験していないともいえます。この頃になると戦国武将の多くがすでに亡くなっていました。
そんな家光が伊達の親父殿と呼び慕っていたのが、独眼竜で有名なあの「伊達政宗」です。戦国時代の生き字引として昔の話を聞いていたようです。
そして政宗の口から戦乱の時代が語られていくのです…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
家康が江戸幕府の基礎をしっかり固めていたからとはいえ、秀忠も家光も厳しく国を統制していたのが伺えますよね。現在の感覚で歴史を語れるものではないですが、ちょっとこの時代を生きたいとは思えませんよ。
ちなみに庶民が苦しかったのはこの時代に限らずです。収穫したお米も農民にはほとんど残らず、作った本人たちは麦や粟を食べていたそうです。
こんな事が許されていいんですか⁉
いやだから江戸時代の話だっつーの!!
コメント