倭寇とは簡単にいうと、かつて対馬に存在した海賊団です…って感じで
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本格的に室町時代に入る前に取り上げておきたいのは、その名も「倭寇(わこう)」という、みんな大好き海賊団です。14世紀から15世紀にかけて、朝鮮半島や中国の沿岸を中心に大暴れしました。
今回はそんな倭寇と朝鮮の戦いのお話です…
地理的に恵まれない対馬
文永の役と弘安の役で元(げん)の侵攻を退けた日本でしたが、決して小さくない被害を受けてしまいました。中でも対馬は特に大きな被害を受けています。
元軍が地理的にまず対馬上陸を目指して来たので、対馬や周辺の隠岐の島民は捕らえられたり殺害されたりで散々な目に合ったのです。
そんな対馬も「今度は俺たちの番だ」とばかりに奪う側になり、海賊行為を働く者たちが現れ、それはやがて倭寇と呼ばれる事になります。そんな倭寇も最初は元に対する復讐の思いからでしたが、やがて船団は500隻に迫るほどになり、商船や護衛船からも物資の強奪などを繰り返していきます。
そして徐々に狂暴化していき、次第に朝鮮半島や中国大陸沿岸から上陸して略奪行為を行うまでになり、取り締まりを任されていた高麗(朝鮮の王朝)も倭寇の対策に苦慮する事になります。
李氏朝鮮の誕生
そんな中、1,368年にはついにモンゴル帝国が崩壊。中国に新しく明(みん)という王朝が誕生すると、高麗に対して倭寇の取り締まりを強化させます。この事で高麗は軍備の強化に乗り出し、600隻以上の船と5万人以上の水兵を組織します。高麗から次の王朝である李氏朝鮮となる頃には、さらに軍備は強化されていきました。
そんな折の1,418年、対馬の島主である宗貞茂が死去。この人は朝鮮との関係を考えて倭寇の取り締まりを行っていました。ざっくり言うと不良島民を摘発するような感じですかね。貞茂の死後、一応は息子の貞盛が後を継ぎますが、実権を握ったのは早田左衛門太郎という倭寇の頭目でした。
朝鮮はこの辺りから対馬自体と対立する事となり、1,419年に対馬に進軍。これを応永の外寇といいます。
対馬VS朝鮮 応永の外寇
朝鮮は倭寇本体が不在の所を攻め落とす計画を立て、まずは情報が漏洩しないように朝鮮の港にいた日本人やその家族を拘束します。特にひどい扱いを受けたという訳ではないですが、抵抗した対馬出身の人達は殺害されてしまいました。
やがて朝鮮は227隻の船と17,285人の大軍で対馬に侵攻を開始します。
対馬の島民は最初、倭寇の帰船だと勘違いして宴の準備をしていました。
しかし敵船の来襲だと気付くと右往左往と慌てて逃げ出します。
朝鮮軍は上陸こそ果たしましたが、対馬の山岳地帯の多さに攻めあぐねているうちに、対馬側の援軍が到着し山側からの攻撃を受けます。
この時駆けつけたのが元寇の時も戦った松浦党との事です。松浦党は水軍ですが海賊行為を行ったりする者もいて、そういった者達は中国や朝鮮からは倭寇ともみられていたようです。
松浦党の資料がいまいちなんですが、高麗の文献によるとずいぶん前から松浦党による被害に遭っていたとの記述もあります。
この戦いで対馬側は総勢600人程度で戦ったといわれ、少なくとも123人の犠牲こそ出しましたが、いったん朝鮮軍を引かせます。
一方、朝鮮側は約2,500人の犠牲を出しています。それでも朝鮮は対馬島主の宗貞盛に
「我々の軍門に降れ」
というような書状を送りましたが、貞盛からは逆に
「強風が吹くから早く帰った方がいい」
との返事が返され、けっきょくは引き返していきました。
いやどんだけ風強いんだよ!!って感じですが、そこはまあ当時の船ですからね。強風の中では船のコントロールも難しいし、最悪だと船の難破という事態にもなりかねません。
しかし倭寇本体が不在の所を狙い、2万人近くの軍勢で攻め込みながらも、こうして朝鮮史上初の単独対外遠征は少々情けない結果で終わりました。
倭寇はその後もしばらく略奪行為を続けますが、やがて明との関係に考慮した日本国内での取り締まりも強化され、徐々に衰退していくのです。
ちなみに後に中国大陸で倭寇が盛り返しますが、こっちはほとんどが中国人だったとの事です。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
海賊行為は褒められたものではないですが、やられたらやり返すという気概みたいなものはちょっとカッコイイなと思いますね。
ドクロの旗をかかげた男に不可能はねェ!!!(ドクターヒルルク!!)
倭寇がドクロの旗をかかげたかどうかは分かりませんが…
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