永倉新八 明治を生き抜いた新選組の語り部

戦国~幕末

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無類の剣術好き永倉新八。新選組では二番隊組長にして剣術師範(撃剣師範)を務めます。しかし気が強く何かと局長の近藤勇と衝突。そして戊辰戦争の最中、永倉は近藤との意見の違いから、ついに新選組を離脱するのです。

その後、近藤は新政府軍に捕らえられ(近藤の投降)板橋刑場にて斬首。

近藤とは喧嘩別れこそしたものの、明治を生きた永倉は近藤の慰霊碑を建てる事にも尽力しています。

大正2年(1,913年)、小樽新聞で読み物「永倉新八」が連載されます。これは小樽新聞の記者が「杉村義衛」という老人に取材して書かれたもの。この杉村義衛こそ永倉新八その人です。

「永倉新八」 新選組離脱後の連載は続きます…

本稿は永倉新八の後編となります。もし良かったら前編からお楽しみ下さい https://gozasourou.com/nagakurashinpachi1/

靖兵隊での戦い

慶応4年明治元年(1,868年)1月、新政府軍と旧幕府軍の戦い「戊辰戦争」が起こると、新選組も旧幕府軍に合流し鳥羽伏見の戦いに参戦。永倉も刀を振り必死に戦います。しかし一夜にして旧幕府軍は朝敵となり徐々に戦況は悪化。新選組も多くの戦死者や離脱者を出しながら、旧幕府軍と共に江戸へ撤退しました。

江戸へ着いた新選組は「甲陽鎮撫隊」と名を改め、甲府城を押さえる為に甲州で戦います。しかし板垣退助率いる迅衝隊の前に敗走。江戸へ引き返します。そして永倉は近藤との意見の違いから、ここで新選組と袂を分かつ事となるのです。

3月、永倉は盟友の芳賀宜道(市川宇八郎)と靖兵隊を結成。一緒に離反した隊士も加わり、旧幕府軍に合流します。

そして4月25日 近藤勇 板橋刑場にて斬首

近藤とは喧嘩別れしたまま、永遠の別れとなってしまうのでした。

靖兵隊は宇都宮の戦いに参戦し旧幕府軍が勝利。宇都宮城を押さえます。しかしその後は新政府軍の増援の前に敗走する事となりました。

ちなみにこの宇都宮の戦いには新選組副長、土方歳三も参加し活躍していますが、もし永倉がこの時に土方と再会していなければ、土方とも江戸で別れて以来それっきりとなってしまいますね。

土方は戊辰戦争最後の地、五稜郭の戦いで戦死しています…

江戸へ帰還

敗走した後は会津、米沢と転戦。戦況が悪化する中、永倉と芳賀は米沢藩主の雲井龍雄の計らいで米沢藩に潜伏していましたが、そこで会津藩が降伏した事を聞くと一旦江戸へ帰る事に決めました。

町人に扮して関所を越えるも心許ない二人は、ある宿でこちらをチラチラと伺う客に

「もしかして徳川から脱走してきた方ではありませんか?」

と話しかけられます。二人はもしもの時は絞め殺してしまおうと考え

「いかにもそうだが…」

と答えます。

所がその町人は、自分は元旗本なのでと協力を申し出てきました。

この町人の助けもあり、その後の関所は難なく通過。江戸へと辿り着くのでした。

江戸で潜伏生活を送る中、芳賀は義兄と酒の席での口論の末、義兄と部下二人に殺害されてしまうのです。

松前藩に帰参 そして松前へ

盟友と死に別れる事となり、さらに旧幕府軍残党への取り締まりが厳しくなる中、永倉はついに松前藩への帰参を願い出る事を決意。これが認められ、永倉の身分は松前藩士に戻りました。

ただ江戸の藩邸への願い出でしょうから、しばらくは江戸で過ごす事になります。

この松前藩の計らいというのは、永倉が元新選組という事を考えると中々のものです。

ちなみに自分が影響を受けた壬生義士伝の主人公、吉村寛一郎は南部藩を脱藩していますが、南部藩に帰参を願い出るも

「不義不忠の限りを尽くしておきながら…」

と切腹を命じられています。

ついでにいうと、この吉村寛一郎が新撰組に入隊を願い出た時に、腕を見たいという事で御前試合をしますが、その時の相手が永倉がでしたね。

そして吉村が永倉から見事に一本取っています。

ある日、永倉は両国橋の上で伊藤甲子太郎の弟、三樹三郎とばったり出会いました。

伊藤甲子太郎は新選組参謀で永倉とも親交がありましたが、伊藤は御陵衛士を結成し新選組を離反。伊藤と御陵衛士は後に、油小路事件で新選組に粛清されています。

そんな御陵衛士の生き残りである伊藤の弟は、新選組九番隊組長も務めていました。当然、永倉の事もよく知っていて兄の敵と恨んでもいるという訳です。

「貴公は今どこにおらるるかな」

と訊ねてくる伊藤の弟に、永倉は

「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

と答えます。

伊藤の弟は緊張感を漂わせながら

「そうか、いずれお目にかかる機会もござろう」

と告げると静かに去っていきます。

少しして永倉がふと振り返ると、伊藤の弟は遠くからじっと永倉を見ていたのでした。

そして数日後には伊藤の一派が松前藩邸の周りをうろつくようになり、さらには米沢藩主の雲井辰雄が、政府転覆を企んだという濡れ衣を着せられ斬首。小塚原刑場(現在の荒川区南千住)にて晒し首となります。

永倉は米沢藩で雲井とも関りがあり自分にも捜査が及ぶ事を危惧すると、伊藤一派の件とも合わせてここは東京を離れる事を決意。

かねてから誘いのあった婿養子の話を受け、松前へ渡る事とするのでした。

近藤の慰霊碑

明治4年(1,871年)松前藩藩医、杉村介庵の娘きねと結婚。明治6年(1,873年)には杉村家の家督を継ぎ、杉村治備に改名。後に杉村義衛(すぎむらよしえ)と名乗るようになります。

そして北海道と東京を行き来し、道場や刑務所などで剣術を教えたりして過ごしていきます。

刑務所では新選組の永倉だと知ると、受刑者たちが震え上がったのだとか。

明治9年(1,876年)、近藤の斬首の場となった板橋に近藤の慰霊婢が建てられます。これは永倉が奔走し、勝海舟や医師の松本良順の協力を得て実現されました。

一説にはあの三番隊組長で戊辰戦争を生き残った、斎藤一の協力も得たらしいです。二人が明治の時代で交流が合ったのだとしたらアツいですよね。

ちなみに島田魁とはけっこう付き合いが合ったそうです。

明治27年(1,894年)の日清戦争の際は、抜刀隊を組織しての参戦を申し出るも

「お気持ちだけ」

と新政府からはやんわり断られました。

「元新選組の手を借りたとあっては薩長の面目丸潰れという訳かい」

と苦笑。永倉この時55歳…

でも永倉なら「BLACK LAGOON」に出てくる銀さんみたいに、銃弾を刀で真っ二つに斬りそうですけどね。

晩年の永倉

永倉の孫曰く、晩年は自分を連れてよく映画を見に行ったとの事です。永倉はある時、映画館の出口の混雑でよろけた所、地元のやくざ数人が面白がって永倉じいさんを小突き回しました。しばらくして永倉が「むっ」と声を張って睨みつけると、やくざはすごすごと去っていったとの事。

「おじいちゃん強いんだね」

と言うと、永倉は

[あんなのは屁みたいなもんだよ」

と答えたとの事です。

幕末を戦い抜いた男の覇気でしょうか。

酒が好きだった永倉は酔っぱらうとふんどし一丁になり

「さあ見てくれ、お国の為に働いた体だ。この傷が俺の誇りだ」

と声を上げたそうです。そんな永倉の体には幾つもの歴戦の傷跡が刻まれていました。

そして大正2年(1,913年)、小樽新聞で「永倉新八」の連載が始まります。

この連載で永倉を知った東北帝大農科大学(現在の北海道大学)の撃剣部員が、剣術を教えて欲しいと永倉に依頼してきました。家族は高齢を理由に断ろうとしましたが、本人がやる気を出して指導に出掛けていきます。

しかし、勢い勇んで竹刀を振るもそのまま倒れてしまい、馬車に乗せられて学生に抱えられながら帰宅したそうです。

永倉さん…

やがて75歳になった永倉はある日、歯痛を訴え抜歯するも、それが原因で骨膜炎を引き起こし肺血症を併発。

そして大正4年(1,815年)1月5日、永倉新八 永眠

剣術に生きた75年の生涯を終えるのでした…

終わりに

いかがでしたか?

歴史は勝者によって作られるもの。とはいえ新選組の汚名はいずれ晴らされたとは思いますが、永倉の尽力がなければもう少し後だったのかもしれません。こういった活動は息子さんやお孫さんに引き継がれ、現在では新選組が単なる「荒くれ者の人斬り集団」と思われる事もなくなりました。

喧嘩別れでそれっきりとなりましたが、永倉が晩年を過ごした部屋には近藤と土方の写真が飾られていたそうです。

「近藤や土方は若くして死んでしまったが、近藤や土方がこの映画という代物を見たらどんな顔をするかなぁ」

ちなみに永倉と同じように明治を生きた斎藤一も、永倉が亡くなった同じ年に亡くなっています。老人だからといってはそれまでですが、奇妙な偶然というか…

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